
風間サチコ 撮影:Hideaki Nagata
戦争や自然災害、帝国主義など重大な事象の根源を「過去」に探り、黒一色の木版画に刻みつけてきた風間サチコ。その作品は、虚飾に満ちた「現在」に対する呪詛なのか、それとも暗雲広がる「未来」に向けた警鐘か。
風間は1972年東京都生まれ。主に木版画による現代美術に取り組み、歴史的資料や日常生活、マンガ文化、文学、建築など多様な源泉から汲み上げたイメージを組み合わせて作品を制作する。暗と明、シリアスとコミカル、美と醜など相反する要素が同居する画面は、現代社会に対する鋭い批評性に加え、見る者の笑いを誘うナンセンスな脱構築性がある。版画の特性に抗う画面の大きさや1点作品というコンセプトも特徴だ。作品は高く評価され、文化庁や国内主要美術館、海外の美術館が収蔵するほか、国立アートリサーチセンターが今年3月に発表した「日本で見られるアート100選:日本の現代アート編」にも選ばれた。
弘前れんが倉庫美術館で6月5日から始まる「風間サチコ展:方丈ルームの1000里眼」は、近年の大型木版画をはじめ、代表的な作品が一堂に会する大規模個展(会期は11月5日まで)。見どころのひとつは、風間にとって初の試みとなる油彩画シリーズだ。木版画で知られる作家が、いま絵筆を取る理由とはなにか。アーティストとしての表現の「原点」は。風間のアトリエである通称「風間ランド」でインタビューした。
──弘前れんが倉庫美術館の個展では、初めて油彩画を新作として発表します。木版画で知られる風間さんのひとつの転換とも受け取れますが、今回なぜ違う手法に取り組んだのでしょうか。
最初に個展の話をいただいた際は、いま関心を持っている社会的なテーマをこれまで通り木版画で発表するつもりでした。ただ、弘前という場所で発表する意味を考えていくうちに、11年前に青森の青森公立大学 国際芸術センター青森 [ACAC]で3ヶ月間滞在制作を行った際の経験を思い出しました。


八甲田山麓の森に位置するACACは、分厚いコンクリートの建物が点在する、どこか要塞を思わせる施設です。制作にはとても集中できる環境なのですが、市街地から離れていて移動手段も限られているので、籠るような生活を送りました。滞在中に読もうとフョードル・ドストエフスキーの小説『悪霊』を持って行ったのですが、これがしんどい内容で。上巻はなんとか読み終えたものの、下巻は登場人物の饒舌な語りが延々と続き、それを外界から隔絶された環境で読むうちに、精神的にかなりつらくなってしまったんですね。
そんなときに、弘前に住むアーティストの友人を訪ねる機会があり、彼に案内してもらって市内の喫茶店や古書店を訪れました。古書店で偶然見つけて買い求めたのが、ヴィリエ・ド・リラダンの短編連作集『トリビュラ・ボノメ』の翻訳本です。そのときは、リラダンは退廃的で幻想的な文学を書く作家という程度の知識しかなかったのですが。
『トリビュラ・ボノメ』の冒頭を立ち読みした瞬間、これは自分が求めている本だとすぐわかりました。文体は異様にエレガントなのに、書かれている内容は辛辣で皮肉に満ちています。没落貴族だったリラダンが、科学至上主義や合理主義に覆われていく近代社会に対して文学で復讐を仕掛けたような小説なんです。主人公のボノメ博士は、リラダンが嫌悪する俗物性を体現したような人物で、倫理観を持たないまま科学を盲信するいっぽう、自身の名誉欲や趣味嗜好には貪欲です。その滑稽さと醜悪さが表裏一体となっているところに大きな魅力を感じました。
今回の個展について考えをめぐらすうちに、弘前の地でこの本と出会ったことを思い出しました。その記憶を起点に、新作や展示全体のイメージが徐々に立ち上がっていきました。

──リラダンは19世紀フランスの象徴主義を代表する作家のひとりです。以前から象徴主義に関心があったのでしょうか?
そうですね。リラダンの作品を読んで蘇ってきたのは、中学生の頃の感覚でした。シャルル・ボードレールやエドガー・アラン・ポー、オスカー・ワイルド、ウィリアム・ブレイク、オーブリー・ビアズリーといった、退廃性や幻想性が色濃い文学や絵画に夢中になっていたんです。いわゆる「中二病」と言えばそうかもしれませんが、その頃の自分にとっては切実な感覚でした。
当時は、彼らの作品に含まれる近代批判や反合理主義を正確に理解していたわけではありません。ただ、暗くて影がある表現や不健康な感覚、すこしオカルトじみた世界観に対して強いシンパシーがありました。それは自分がまだ子供なのに、日向の世界から転げ落ちて、日陰の側にいるような感覚を抱えていたからだと思います。

私は小中学校時代、体が弱くてあまり学校に通えませんでした。そのため、社会にある「健康であるべきだ」「集団に順応すべきだ」といった「健全さ」を前提とする価値観にいつも息苦しさを感じていました。だからこそ、退廃や非合理を自ら引き受ける象徴主義の作家たちに惹かれたのだと思います。
青森でリラダンを読んだことで、その頃の感覚が鮮明に蘇りました。今回の新作では、自分のなかに変わらず残っていた合理主義に対する違和感や反感、そこから生まれるデカダンスな美意識を、あらためて掘り下げて視覚化してみたいと思ったんですね。

──そうした主題を扱うために、ペインティングを選んだわけですね。
私の木版画の制作プロセスは、まず細部まで緻密に下絵を描き、それをもとに彫りと刷りを進めていく、かなり計画性の強い作業です。白と黒のコントラストを含めて、あらかじめ完成形を設計して、そのイメージに忠実に工程を積み重ねていきます。たとえば恩地孝四郎といった創作版画の作家たちは、もっと即興性を制作に取り込んでいましたが、私の場合は先にテーマが決まっていて、それを実現するための装置として木版画を用いているところがあります。
ただ今回は、象徴主義に通じる非合理でロマンティックな感覚を扱いたいと考えました。そのためには描きながら無意識のものを呼び込んでいくような、自動記述か降霊術のような感覚が必要かもしれない。そう考えると、計画性を前提とするこれまでの木版画の方法とは、噛み合わない気がしました。
油彩画やアクリル画は、描きながら色彩や形状を変化させられるメディウムです。途中で生じる揺らぎや偶然性を受け入れながら制作を進められる点で、今回のテーマにより自然だと感じました。
